カウンセリングをしていると、ときどき、こんなご相談を受けます。
というか、この時期、特に「この相談」が多くなります。
「いただいたプレゼントが、どうしても使えないんです」
「せっかく贈ってもらったのに、要らないんです」
「義母から送られてくる食物は、苦手なんです」
せっかく贈ってもらった申し訳なさと、見るたびに気が重くなる、そんな、お話です。

多くの場合、問題はモノそのものではなく、
「いただいたものは大切にしなければならない」
「相手の気持ちを裏切ってはいけない」
という思い込みです。
これは、日本人には馴染み深い感覚だと思います。
プレゼントはもちろん、お歳暮やお中元、引き出物の多くは、相手が善意で選んだものです。
だから、受け取るときには、きちんと感謝を伝える。
それは大切にしたい礼儀です!
でも、そのあと、そのモノをどう扱うかまで、罪悪感で縛られる必要はありません。
お歳暮にしても、
クリスマスプレゼントにしても、
義母や親戚からの贈り物にしても、
“こちらの好み”を丁寧に聞いたうえで贈られるケースはほとんどありません。
だから当然、
「これ…要らないな」
「正直、使わない…」
というモノも届きます。
そんな時は、気持ちよく“お福分け”してもいいし、誰にも行き先がなければ、そっと手放してもいい。
罪悪感は、一切不要です!
心が重くなるなら、手放す選択があってもいいのです!
そのモノを“どう扱うか”は、あなたが決めていい。
相手がこちらの好みを無視して贈ってきたのだから、あなたはあなたの好みで処理していい。
ここに矛盾はありません。
むしろ当然の権利です。
これは、相手を軽んじているわけではなく、自分をすり減らさないための判断です。

相手の期待に応え続ける生き方は、見た目よりずっと消耗します。
プレゼント一つでも「ちゃんとしなきゃ」と抱え込む人は、言葉や感情、人間関係でも同じことをしがちです。
そうやって、気づかないうちに疲れていく、、、
人生を少し楽にするコツがあるとすれば、「相手の期待」と「自分の責任」を分けて考えることかもしれません。
相手の気持ちに敬意を払うことと、自分の心まで差し出すことは、同じではありません。
これは、『言葉』についても同じです。
誰かの言葉が重たすぎるとき、無理に受け取らなくてもいいし、心に置かないという選択もあります。
その代わり、自分が何を大切にしたいのかは、少しずつ言葉にしていけばいい。
プレゼントも、
言葉も、
人間関係も、
あなたを苦しめるためにあるものではありません!
うまく扱えないときがあっても、それは失敗ではないと思います。
せめて今日くらい、自分を消耗させすぎない選び方を、どこかで思い出してもらえたら嬉しいです。

昨日オンエアされた、安達 充さんのラジオ番組に出演した回が、
ついに前半・後半に分けてアーカイブ公開されました。
人生の“節目”を静かに振り返るような、
不思議と心が整う時間です。

2025年12月11日にオンエアされた
ソングレターアーティスト・安達 充さんのラジオ番組。
収録当日、スタジオに流れていたのは、
「音に乗せて、人の物語を大切に運んでいく」という
安達さんらしい、凛としてあたたかい空気でした。
そんな空気に包まれながら、
僕自身の原点を、静かに語らせていただきました。
前半:名前の由来、生い立ち、そして“氏名に宿る使命”
まず前半のコーナーでは、
「神社昌弘」という名前の由来、
京都・大江山麓にルーツを持つ家の話、
父を亡くした10代の日々、
そして、クローン病を発症しながら学んだ“いのちの姿勢”について。
さらに、
“名前から読み解く使命”
という視点についてもお話ししていただいています。
自分の名前には、自分が生きる道筋が、
そっと手紙のように折りたたまれて入っている──
そんなお話を、安達さんが丁寧に引き出してくださいました。
📻 前半はこちら
後半:カウンセラーとしての仕事と、フォトエッセイ朗読
後半では、僕のカウンセラーという仕事について。
目の前の一人と、どう向き合ってきたのか。
どんな思いで、この仕事を続けてきたのか。
そして番組の後半、
安達さんのピアノに寄り添うように、
僕のフォトエッセイ集『わたしを生きる』の一部を朗読させてもらいました。
音楽と言葉が交差する、不思議な時間でした。
「聴く人の心が、ふっと緩むように」
と願いながら読ませていただきました。
📻 後半はこちら
ラジオは“その人の呼吸”が映る場所
テレビとも文章とも違って、
ラジオは“その人の呼吸”がそのまま響きます。
だからこそ、
今回のアーカイブは、
僕自身の軌跡と、今の想いが
静かに、まっすぐに伝わる内容になっていると思います。
人生のどこかでふっと立ち止まりたい時、
どうぞ前半・後半あわせて聴いていただけたら嬉しいです。
安達さん、スタッフの皆さま、
そして日頃からブログを読んでくださる皆さまのおかげで、
こうして声を届けられていることに、心から感謝しています。
あなたの今日が、少しでもあたたかく、
少しでも軽やかになりますように。
“自分らしく生きたい”——その願いは尊いのに、
やり方を誤ると、ただの“わがまま”に転落してしまうことがあります。
その境目にあるのは、たったひとつの問い。
「そこに愛はあるか?」

「本音で生きるんです」
「私は私で行きます」
この言葉、勢いがあって気持ちはよくわかります。
ただ、それによって周りが疲れてしまっているなら、
それは“自分らしさ”と呼ぶには少し乱暴です。
本当は「〜べき」という言葉を使いたくありません。
でも、
人間関係の基本だけは、
あえて“べき”と呼んでいいと、
僕は思っています。
長年カウンセリングをしてきて、
ここを外すと、必ずどこかに亀裂が入るからです。
言い方ひとつで、人の心は開いたり閉じたりします。
「嫌い」
「無理」
「ありえない」
「太りすぎ」
「ダサい」
「臭い」
たとえ、それが本音であっても、
これは本音ではなく、ただの暴力。
本音でぶつかるより、
思いやりで触れる方が、
遥かに強く、深く伝わるものです。
京都では昔から、
「親しき仲にも礼儀ありどすえ:笑」
と言われてきたように、
尊敬と尊重は、関係を長続きさせるための土台です。
もしあなたが最近、
誰かに雑に扱われていると感じるなら、
まずは自分自身をどれくらい丁寧に扱っているか、
そっと確かめてみてください。
そしてもし、
あなたが無意識に相手を雑に扱ってしまっているなら、
いつか必ずしっぺ返しが来ます。
これは精神論ではなく、自然の摂理です。
愛を欠いた言動は、必ず自分に戻ってきます。
だからこそ、
自分の言葉や態度を選ぶとき、
たったひとつの基準で十分なのです。
「この行動に、愛はあるだろうか?」
愛があるなら続ければいい。
愛がない相手なら、静かに距離を置けばいい。
戦う必要も、我慢する必要もありません。
距離は立派な選択です。
自分らしく生きるということは、
自分勝手に生きることではない。
自分の軸を持ちながら、
相手の人生も尊重する。
その姿勢こそが、
人間関係を豊かにし、
自分の人生も美しく整えていきます。
どうか今日も、
あなたの選ぶ言葉と行動に、
やわらかな愛がありますように!

先日、久しぶりに強い怒りを感じる出来事がありました。
滅多に怒らない僕ですが、
今回は思わず声を荒げてしまったほどです。

大切な友人たちとの会食の席で、
ひとりの友人が周囲への敬意を欠く態度をとり、
そのまま見過ごすことができず叱ったところ、
まさかの“逆ギレ”が返ってきました。
その瞬間、場の空気が一変し、
友人は涙を流すほど追い詰められてしまいました。
間違っているのは相手であり、
僕が叱る理由も筋が通っています。
しかし、あとから胸の奥が重くなり、
「やりすぎたな」
と反省したのも事実です。
正論は正しい。しかし、それだけでは関係は守れない
今回、強く感じたことがあります。
正論は、相手を守る盾にも、突き刺す刃にもなる。
僕には“正しいことで追い詰めてしまう癖”があります。
それは悪気ではなく、
「誠実でありたい」という思いの表れでもありますが、
相手にとっては逃げ場のない言葉になってしまうことがある。
気づかぬうちに、
「頑張っている自分が正しい」
「反対側は間違っている」
という二元論に寄っていたのかもしれません。
正しさに寄りすぎると、人は余裕を失います。
叱るには、正しさ以上に“余白”が必要
叱る場面こそ、
心に遊びとゆるみが必要だと、あらためて感じました。
余白を持てば、言葉は柔らかくなる。
相手を責めず、関係を守ったまま伝えることができる。
僕自身、最近は少し“きっちり”しすぎていたのかもしれません。
ゆとりがあれば、あの場面でも違う伝え方ができたはずです。
大人になっても「ごめんなさい」を言えるかどうか
友人も謝ってくれました。
そして僕も素直に「ごめん」と伝えました。
翌日にはしっかり仲直りすることができました。
大人になるほど、「謝る」という行為は難しくなります。
しかし、関係性を整えるうえで、
「ごめんなさい」ほど強く、あたたかい言葉はありません。
人間関係は、完璧である必要はありません。
大切なのは、ぶつかったあとにどう向き合うか。
修復と理解の積み重ねこそが、信頼を育てるのだと思います。
ぶつかり合いは、関係が深まる前触れでもある
今回の出来事は、
僕自身が「正しさに寄りすぎていなかったか」と振り返る大きなきっかけになりました。
叱る側にも、叱られる側にも、
やわらかい反省と、少しの余裕。
それがあれば、人間関係は壊れないどころか、より深まっていきます。
大喧嘩の夜は、僕にとって
“正しさと優しさのバランス”を学び直す貴重な時間でした。
これからも、
正しさよりも「温度」を、
言葉よりも「余白」を大切に、
人と向き合っていきたいと思います。
帰りたくないのに帰る必要はありません。
義務でもなければ、修行でもない。
“気が重い場所”は、実家とは呼びません。

日本では、
特に地方に行けば、
「盆と正月は家族で過ごすもの」
という“伝統のかたち”があります。
もちろん、伝統は大事です。
家族への感謝も、その気持ちは尊いものです。
けれど——
“気持ちを奮い立たせて帰らないといけない場所”は、もはや実家ではなく、ただの“表向きの場”です。

本来、帰省とは、本来「会いたいから帰る」ものです。
にもかかわらず
・文句を言われる
・過干渉される
・比較される
・自分の人生に口出しされる
・愚痴や否定が続く
そんな空気が流れているのなら、
それは、あなたが悪いのではありません。
“帰ってくる人を歓迎できる魅力”を家の側が失っているだけ。
推しや憧れの人には会いたくなるように、
会いたいと思わせる“雰囲気”は、家にも必要なんです。

「帰ってきなさい」
「行かなかったら薄情だ」
「家族なんだから」
こういう“言葉の圧”で動く帰省は、持続しません。
人は、義務や罪悪感では動けない。
まして大人になれば、自分の生活・心・体力の優先順位が変わります。
だから、帰りたくなければ、帰らなくていい。
ただし、嫌われる勇気を持つことが肝心で、相手を否定してはいけません!
ここが大事です。
帰省を断る時は
「否定もしない・愚痴も言わない」
これが最強です。
・「ただ合わないだけ」
・「今の私には必要がないだけ」
それだけで十分。
愚痴を言う人は、どこに行っても愚痴を言います。
あなたが何をしても言います。
だから、びくびくする必要はありません。

以前のブログでも書きましたが、
「家族だから仲良くしなければ」
これは幻想です。
仲良くしようと努力している時点で、
もう相性は悪いんです。
そして、
『自分の言う通りなら“良い子”、
言う通りにならなければ“悪い子”』
そんな基準であなたを見ている人に、
あなたの本音を理解する心は、残念ながらありません。
しきたりも歴史も、もちろん大事ですが、もし、20年も30年も続けてきたのなら、
今年ぐらい、休んでは、いかがですか?
一度ぐらい、いいじゃないですか。
それで崩れる関係なら、もともと本物じゃない。
本物の家族はね、
“あなたが元気でさえいればいい”
それだけなんです。

自分の心に従うことは、
わがままでも不義理でもありません。
「帰りたくない」
その気持ちを否定しないでください。
その本音こそが、
あなたが自分を大切にするための“羅針盤”です。
今年は、あなたが心から安らげる場所で
年末年始を過ごしてほしいです。
あなたは、それでいい。
それが、いい。
親でも、職場でも、ムリなものはムリ。
あなたの人生は、もう“人間関係の修行”じゃない。

こんにちは。
カウンセラーの神社昌弘です。
今日のテーマは、少しパンチを効かせています。
でも、必要な人には“心の救急箱”になります。
どうか最後まで読んでください。
「仲良くしないといけない」という呪い
家族だから。
同じ職場だから。
昔からの友人だから。
――だから仲良くしなきゃいけない。
その“昭和の呪い”、そろそろ外しませんか?
相性が悪いものは、どうあがいても悪い。
血が繋がっていても、毎日顔を合わせても、合わないものは合わない。
それは、人間として“普通”です。
異常なのは、無理矢理合わせようとする方。
家族も職場も、仲良しごっこをする場所じゃない
本来、家族とは
「お互いの違いを認めて、尊重し合う場所」
職場とは
「それぞれの特性を活かして、社会に貢献する場所」
…なのに、現実はどうでしょう?
・上から押さえつける
・決めつける
・縛りつける
・“いい子”を要求する
これ、まだ続けますか?
この構造のままでは、不満と我慢が積み重なって、いずれ心も体も壊れます。
爆発できる人はまだいい。
爆発すらできない人は――
死んでからも浮遊霊みたいに彷徨い続けます。
(※これは占いではなく、人の氣の話です。)

子どもは、親の期待を叶えるために生まれてきたわけじゃない
これは、僕が20年以上カウンセリングして、3万件以上の相談を聞いたからこそ言い切れます。
子どもは「親の期待を満たす存在」ではない。
あなたも誰かの期待を生きる存在ではない。
人はみんな、“自分の魂の道”を歩くために生まれてきている。
だから、
「なんでわかってくれないの!?」
と怒る必要はありません。
聴く。
ただひたすら聴く。
聴くことは、愛。
京都の言い方なら、
“聴く=聴(ゆる)す”こと。
(事実「ゆるす」と読みます)
つまり、
相手を許すことです。
反応しない力が、あなたを守る
なにか言われても、
「わかりました」
で終わりでいい。
戦わない。
反論しない。
いちいち受け取らない。
あなたの人生は、誰かの言葉に消耗するためのものではありません。

“わかりあえない”ことを前提にすると、人生が軽くなる
大切なことなので、はっきり書きます。
人は、わかりあえない!!!
どれだけ血縁でも、
どれだけ長く一緒にいても、
どれだけ職場で顔を合わせても。
こちらが歩み寄りたくても、
相手がわかりあいたくないと思えば、
その瞬間、ゲームオーバーです。
人間関係は“2人プレイ”。
片方だけ頑張っても成り立ちません。
わかりあえないから「わかり合いたい」と思うことが愛なのです!
あなたのその優しさを、もう削らないで
あなたの大切な時間を、
もう、無謀な期待や、“変わらない人”のために使わないでください。
あなたの優しさを、
関係が壊れるほど消耗させないでください。
あなたが責められる必要も、
頑張りすぎる必要も、
“いい人”を演じ続ける必要もありません。
人生は長いようで短い。
心は強いようで繊細!
あなた自身を守るために、離れていい。
逃げていい。
スルーしていい。
それは“逃げ”ではなく、“選択”です。
最後に(神社から)
人間関係は“全勝”なんてありえません。
勝つ必要もないし、
そもそも戦う必要もない!
あなたが心を許せる人とだけ、
おだやかに、誠実に、深くつながればいい。
その他は、
ニコニコして、
適度に距離をとりながら、
軽く流しておけばいい。
あなたの心は、あなたが守ってください。
それが、幸せへの一番の近道です。

変わりたい。
でも変われない。
あなたは、この堂々巡りに、もう飽き飽きしていませんか?

実は――
人が変われない最大の理由は
「性格」ではなく、
「怖さ」です。
脳科学の研究では、人は変化を「危険」と判断すると“防御回路”が働き、現状維持を強烈に選ぶようにできています。
そして、悩んでいる多くの人が抱えている共通点はこれです。
・ひとりになるのが怖い
・嫌われたくない
・波風を立てたくない
・だから、本音を押し殺してしまう
つまり、
「変われない」のではなく、
「守っている」んです。
ずっと自分の身を、必死で守ってきた優しいあなたの歴史がある。
ただし――
その“優しさ”が、今のあなたを苦しめている。
ここが、人生の痛いところです。

人が変われるタイミングは、いつもたった一つ。
「私は、たとえひとりになっても、私の味方でいる」
と腹が決まった瞬間だけです。
この覚悟ができると、細胞レベルで目が覚める。
(精神医学でも、自尊心が回復する時は“味方の確立”が起点と言われています。)
逆に、
どれだけ人に囲まれていようが、
どれだけ誰かに愛されていようが、
自分が自分の味方でなければ、孤独は永遠に消えません。
そして、この“孤独”こそが、
あなたの生きづらさの正体です。
よく誤解されますが、
自分を愛するとは、
「可愛いところだけを好きになる」
ことではありません。
本当は、
・わがままな自分
・嫉妬深い自分
・卑屈な自分
・ズルい自分
・最低やな…
と思う“裏の自分”まで含めて、
「それでも、生きてきたね」
と抱きしめること。
心理学でも、
人が変わる起点は “自己受容(セルフアクセプタンス)”と明確に証明されています。

あなたが変われないのは、
能力が低いからでも、
意思が弱いからでもない。
ただ、自分をまだ許していないだけです。
あなたは、
“優しい”のではなく、
“自分を後回しにしてきた”だけです。
それは、悪ではない。
むしろ、あなたの美しさです。
でも――
もう十分でしょう。
「ごめん、私。ずっと後回しにしてきて」
「もうこれからは、私があなたの味方になる」
この一言で人生が変わるきっかけをつくれます。
あなたは今、すでに“変わり始めている”
だって、この記事を読んでいる。
ここまで読んだということは、
あなたの魂がすでにこう叫んでいるからです。
「私は、私を生きたい」
その声を、スルーしないでください。
今すぐ
「私は、私を生きる」
そう宣言しよう!!!
そして、
あなたを全肯定してくれる人を、探しに行ってください。
ダメ出しばかりする人、
制限ばかりする人は、
ただ無難に生きているだけ。
あなたの人生の速度に、
ついてこれない人です。
もう、その人の人生からあなたを解放していい。
変われるタイミングは、今しかない!
人は、変化を決断した“その瞬間”から、未来が書き換わります。
「また今度」
「タイミングが来たら」
と言って変われた人を、僕は一度も見たことがありません。
変わるのは、“今”と腹を括った人だけ。
あなたならできます。
あなたはここまで、生き抜いてきた人です。
自信を持って、誇ってください。
あなたの人生は、今日から本気で動き出す。
必要な方にどうか届きますように。
そして何より――
あなたが、あなたを好きでいられる人生へ。
