こんにちは。
カウンセラーの神社昌弘です。
社会で生活をしていると、時に嫌なことを言われたり、怒られたり、注意をされたり…
「なんでそんなことを言うの?」
っていう理不尽なことは、よくありますよね?
どんなに言い返してたくても、それをすると大人げなかったり、喧嘩になったり、悪い雰囲気になるだけだから、つい我慢をして、
「いったい、僕の何が悪かったんだろう?」
って考えてしまいます。
もちろん、僕に非がある場合は、反省して謝ります。
それならスッキリしますが、たとえ自分の非を探しても見つからないことがあるんですよね。
そして、どんなに未熟な自分を責めても、追い込んでも、ただつらくなる一方で、しんどくなるだけ…
結局は、意味や理由がわからなくて、納得もできず、モヤモヤするだけのこともありますよね。
人が人を注意したり、怒る時というのは、実は、身勝手なことも多く、そこには深い意味や理由なんてないこともあるのかもしれません。
もちろん、愛のある注意はあるかもしれませんが、そんなものは滅多になくて、そもそも、そこに「愛」があれば、言われた方は、すぐにわかるし、そんなに苦しむことはないんだと思います。
きっと、嫌なことを言ったり、怒ったりするのは、ちょっと意地悪をしたかっただけなのでしょう。
ただ、八つ当たりをしたかったのでしょう。
もしくは、僕のことを懲らしめたかったり、僕のことが気に食わないかったからなのでしょうね。
誰にでも好き嫌いはあるし、相性もあるから、これはお互いさまで、こればかりは仕方ありません。
だから、もし、自分がつらくてしんどいなら、その場から離れて、その人とは距離をあけるのが一番です。
まともに付き合おうとするからしんどくて苦しくなります。
そうはいうものの、職場や学校では、みんなと付き合わないといけないこともありますよね?
そんな時は、心の距離を離してください!
あなたが、信頼できる人にだけそっと心をひらいて、あとは適当でいいですよ。
こんにちは。
カウンセラーの神社昌弘です。
おかげさまで、2020年2月12日から書き続けている「お布施ブログ※」を、たくさんの方に読んでいただき、先月のアクセス数は、これまでの2倍以上になりました。
読んでくださっている皆様に、心から感謝いたします。
そして、このブログを書くチャンスをくださった穗口大悟さんに、ありがとうございます。
さて。
今日は、もし大切な人が「病気」になったら、どうするか?
大切な人が病気になった時にできることを書いてみたいと思います。
僕のところには、僕が難病を克服したということもあって、同じクローン病の方はもちろん、重い病気を患う方やその患者を支える家族、友人、恋人、仲間たちか集まってきます。
病気は、本人にとってはもちろん、まわりにとっても人生の試練になりますよね。
だから、そんな試練の時には、どうしていいかわからなくなることもあると思います。
大切な人であればあるほど「代わってあげたい」という気持ちは募るでしょうし、大して何もできない自分が、もどかしくて仕方ないこともあるかもしれません。
そんな時は、
「だいじょうぶ?」と聞くのではなく、
また「がんばれ!」というのでもなく、
ただ心から祈ることしかできないと思いますし、それが一番だと思います。
その人が乗り越えられると信じ切って、祈ることが一番いいと思います。
できることなら、傍で肩をさすったり、手を握るだけでもいいと思います。
ある日のこと。
僕が難病で苦しんでいた時に、こんな風に応援されたことがありました。
「私が頑張るから、神社君はだいじょうぶよ」って。
えっ?意味がわからないと思って聞き返すと、
「私は、あなたが乗り越えられるように祈っているし、それを頑張っているの。あなたが治ることを信じ切ってるのよ」と。
それまで、こんな応援をされたことがなかったので、びっくりしました。
彼女は、心配するエネルギーを信頼するエネルギーに変えて、祈ってくれていたんですね。
それから何年も経って、僕が病気を克服した時、彼女に尋ねました。
「なぜ、あの時、あんな応援ができたの?」と。
すると彼女は、
「私が頑張るしかなかったの。毎日毎日、心配で不安に押しつぶされそうだったから…私が“祈り”を頑張ることしかできなかったし、それによって、実は、私の方が救われていたのかもしれない」と。
この時、心配のエネルギーを信頼するエネルギーに変えて祈ること…
それは、確実に伝わるんだなぁと思いました。
心配な時、不安な時、たとえ何もできないような時でさえ、祈ることは、いつでも、どこでも、誰にでも、できますよね。
相手が必ず乗り越えられると信じ切って、心配するエネルギーを信頼するエネルギーへと変えて、大切な人を応援することができたらいいですね。
※僕の実体験から得た「生きる知恵」を、皆様の日常に役立てていただきたいという願いを込めて書いています。
こんにちは。
カウンセラーの神社昌弘です。
最近でこそ、イラっとすることが少なくなりましたが、かつての僕は、しょっちゅうイライラしていました。
一見、温厚で穏やかそうに見えますが(えっ!見えない?笑)、短気でプライドが高く、そこに負けず嫌いの性格が加わるので、僕はやっかいです。
家族や上司、先輩たちから指摘されたり、注意されると、いつもイラっとして、
…(もう、わかってるよ!!)…
心の中で言い返すことはもちろん、人前でわざわざ指摘する人に対しては「性格悪いんちゃう?」とか本気で言い返していました。
…僕って、ホント最悪ですよね…
そもそも、イラっとするのは、わかっているからなんです。
わかっていて、しかも、相手の方が正しいから腹が立つんですよね。
素直に「わかりました」と言って、ただ直すだけでいいのに、なぜそれができないのでしょうか?
それは、
・自分を否定されたという被害者意識があるのかもしれません
・私の味方になってほしかったのにという悲しさがあるのかもしれません
・もっと私の奥の部分をわかってよというSOSかもしれません
・できない自分へのもどかしさがあるのかもしれません
・「手伝って」と言いたいのに言えない気持ちがあるのかもしれません
きっと、いろいろあるんだと思います。
僕がいま、イラっとすることが少なくなって、それはそれでとっても嬉しいことなのですが…
逆に、イラっとしなくなって、少し怖くなってきたことがあります。
それは、イラっとする時こそ、直すべきところがあり、成長するチャンスだという事実を知っているからです。
だから、イラっとしない今、どこか自分が傲慢になって、自分が正しいと思い込んでいるところがあるんだなぁと怖くなります。
そもそも、誰かが、指摘してくれたり、注意してくれるのは、あなたに可能性があり、あなたが成長できることを知っているからなんですよね。
だから、とっても有難いことです。
指摘や注意をされると、多少イラっとすることはあると思いますが、そんな時こそ、
・イラっとするのが悪いのではなく…
・また直すべきことがあるのが悪いのでもなく…
それを言い返したり、感情で誤魔化したりすることが良くないんだなぁと思って、その裏に、必ず成長するチャンスがあると気づいてくださいね。
そして、もしかしたら、イラっとさせる相手が、あなたのことを真剣に想っているかもしれないことを、どうか忘れないでくださいね。
こんにちは。
カウンセラーの神社昌弘です。
僕がカウンセラーとして独立して数年は良かったのですが…
その後、徐々に経営状況が悪くなって、ダブルワークをやっていたことがありました。
日中にカウンセリングをして、夜間にバーテンダーをやっていたのです。
夜の仕事だけはやりたくなかったのですが、そうもいってられません。
生きてゆくためには、お金が必要でした。
御縁をいただいた一見さんお断りの高級バーのマスターにひろっていただいて、そこで二年間お世話になったのですが…
バーのお仕事は、僕にとって初めての世界!
何もわかりませんでしたが、マスターが、いろんなことを丁寧に教えてくれました。
バーテンダーとは「bar(止まり木)」「tender(優しい)」のことで、日頃頑張っているお客様が羽を休める場所です。
働いてわかりましたが、ここはカウンセリングの傾聴力を鍛え、守秘義務を徹底的にするには、もってこいの場所でした。
素晴らしい環境で自由に働かせていただき、一般社会ではお目にかかれないようなお客様とも出逢い、それまで勝手な先入観を持っていた自分を反省しました。
なんとか結果で感謝を表したいと思い、いつも誰よりも早く到着して掃除をするのはもちろん、少しでも安らげるようにアロマを持参したり、バーの背もたれにクッションを置いたり、お花を飾ってみたり、トイレにひと工夫を凝らしたり、常に“何か”できることはないかと考えて行動していました。
そんなある日のこと。
イラっとした様子のマスターから、一体ここは「誰のバーなんだ?」って言われました。
…(しまった!勝手にやり過ぎた)…
冷汗が出て「ごめんなさい」としか言えませんでした。
少しでも恩返しがしたいと思ってやってきましたが、僕がよかれと思ってやっていたことは、僕の職分ではなかったのですね。
僕がしなければいけなかったことは、マスターの想いを聞いて、確認して、許可をとって、やることでした。
独りよがりだったことを反省をしながら、「どうしたら恩返しができるのか?」を調べていたところ、こんな文に出会いました。
恩は返せるようなものではありません。
恩を返せると思うこと自体が傲慢です。
なぜなら、そこには、恩は返せるという思い込みと、自分がしていることが良いことだという思い上りがあるからです。
これを見てショックを受けましたが、まさに、その通りだと思いました。
僕は、自分勝手な価値観を元に、与えられた恩の量を勝手に推し量り、その量を返そうとしていたんですね。
そもそも、恩の量なんて計ることができないし、その量を返すこともできないのに…。
恩は返すものではなく…
与えてくださった恩を素直に喜び、心から感謝をして、その気持ちに報いるしかないのですね。
こんにちは。
カウンセラーの神社昌弘です。
かつて、キャリアカウンセラーをしていた時に「自分の使命」や「働く意味」にこだわる人たちに沢山出会ってきましたが…
残念ながら、そんな人に限って、なかなか良い御縁に恵まれることはありませんでした。
逆に「お金のため」「生活の為に働きたい」というシンプルな方は、すぐに就職が決まっていたように思い出します。
だから、もし本気で働きたいという人がいたら、最初は「お金のために働く」という気持ちで行動するのが一番良いです。
自分ひとりを養えなくて(自分を生かせなくて)、人を生かすことや人を助けることは無理ですからね。
そうはいうものの、好きなことをやっている人たちを見ると、彼らに憧れたり、羨ましく思ったり…
また、使命感を持って働いている人を見ると、つい彼らが輝いて見えたりしますよね?
これって、僕だけでしょうか?
僕自身、そんな憧れを抱き続けてきたので、ずっと自分にしかできないことをやりたかったし、それを探し求めて、いろいろやってきましたが、本当にやりたいことができるようになったのは、自分が自分を養えるようになってからのことでした。
ここに辿り着く迄に、10年以上もかかりました。
僕が使命や働く意味にこだわっていた時、僕は自分を生かすことばかり考えて、全然お客様目線にはなれていませんでした。
口では「人の役に立ちたい」とか「社会貢献」とか言いながら、実は、人からの目線や世間体を優先していて、職種によっては「僕は、こんな仕事をすべき人間ではない」と思い込み、いろいろジャッジしていたように思い出します。
そんな僕が、イギリスに行って、使命という英語が「Calling(コーリング)」だと知って、そこから徐々に意識が変化してゆきました。
コーリング(使命)とは、もともとキリスト教で、神から与えられた使命や召命のことで、自分勝手に選ぶものではありません。
また帰国後に、「働く」という語源が「傍(はた)を楽にする」ことを知って、この二つを重ね合わせてみても、やっぱり働くというのは、たいそうな意味や目的を追い求めるものではなく、与えられた環境で、与えられた仕事を丁寧にすること!すぐ傍にいる人を楽にして、喜ばせるもの!なのだと思い知りました。
「自分の使命」や「働く意味」も大切ですが、その前に、
・お金のために働く!
・生きてゆくために働く!
それが大事で、それでいいです。
そして、それができて、余裕が出た時に、ぼちぼち「自分の使命」や「働く意味」を考えてもいいのだと思います。
そうでなければ、自分がやりたい想いというものは、無意識に相手に重くのしかかり、単なるおせっかいになることが多いですからね。