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南三陸で受け取った声

2025/10/01

生きている僕たちが、どう生きるか

先日、三日間、宮城県を訪れてきました。




南三陸を歩き、語り部の方の案内を受けながら、

被災地の各地を巡る──




それは、僕にとって

「鎮魂の旅」になるだろうと思っていました。


けれども、実際は、

僕の傲慢さを思い知らされる旅でもありました。




幼い頃から霊的な感覚に親しみ、

カウンセラーとして20年、

独立して10年という年月を重ねてきたことで、

どこか「自分にできる役目がある」

と思い込んでいたのです。




事実、2011年の震災直後には、

この本を自費出版し、

少しでも力になりたいと願ったこともありました。


『ひとりぽっちからの卒業。』

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「祈りを捧げ、魂を鎮める」──


そう意気込んで現地に立った僕でしたが、

そこで待っていたのは全く違う現実でした。




すでに、大自然や大宇宙、そして大いなる神々が、

すべての魂をやさしく抱きしめ、

癒してくださっていたのです。


むしろ、亡くなられた方々からは、

こんな声ばかりが届いてきました。


「私たちは、もう大丈夫だから心配しないで」

「冷たくも、痛くも、辛くもない世界で、安心しているの」


その一方で──

「残された人たちが、まだ傷を抱えて塞ぎ込んでいるのを見るのが辛い」


そんな切実な響きも感じられました。




もちろん、

遺された方々の悲しみや痛みは消えません。


けれども、

亡き人たちはすでに宇宙の懐に還り、安心の中にいる。


だからこそ、

僕たちにできることは

「残された人たちが、どうか幸せであってほしい」

という想いなのだと気づかされました。




この三日間、現地で過ごすことによって、

僕自身の在り方を大きく揺さぶられました。


TVやSNS、情報や知識だけではなく、

自ら足を運び、耳を傾け、肌で確かめる、

その積み重ねこそが、

本当に大切なことを教えてくれるのだと。




東日本大震災から、もう14年が経ちました。


いま目にする南三陸の海は静かで、

美しい波が寄せてくるばかり。


その姿に

「本当にあの出来事があったのか」

と錯覚しそうになります。


けれど遺構に立てば、

そこに確かに存在した命を思い出さずにはいられません。




改めて、亡くなられた方々のご冥福を祈り、

そして残された方々の人生が穏やかでありますようにと、

心から願いました。


とりわけ、

防災対策庁舎を訪れた時の光景は、

今も胸に焼き付いています。




ひらひらと舞う二匹の黄色い蝶。


「あの出来事にどんな意味があったのか」


そう問いかけそうになった僕に、

蝶はただ、美しく自由に舞っていました。


理由や意味を求めたくなるのが人の性。


けれど自然の前に、

僕たちは小さな存在にすぎず、

ただ与えられた命を「精一杯生きること」

それこそが「答え」なのだと、

その光景が教えてくれた気がします。




この三日間の旅で、

僕は「生きている僕たちこそ、どう生きるのかを問われている」

と強く感じました。


与えられた命を、誰かのために、

そして自分自身のために、どう使っていくのか?


ちょうど今年は、独立して10年、

そしてカウンセラーとして20年という節目。

さらに、父と同じ47歳を迎える年でもあります。


あの震災で失われた多くの命に思いを寄せた時、

僕自身もまた「残された命をどう生きるか」

という問いを突きつけられたように思いました。


だからこそ、

今の僕にできることは「自分らしく生きる」

ことをテーマに、言葉と写真を形にして届けること。


その集大成として、

このたびフォトエッセイ『わたしを生きる』を制作し、

クラウドファンディングに挑戦しています。


猫の姿に学んだ

「自由に、のびやかに、自分の軸で生きる」

そして、苦しみを超えたからこそ伝えられる

「癒しと希望の物語」

これを本に託し、多くの人に手渡していきたい!


その願いは、

まさに今回の旅で改めて確信に変わりました。


残された時間は、限られています。

だからこそ、精一杯に「今」を生き切りたい。


その一歩を踏み出すことが、

亡き人への祈りにも、

未来への贈り物にもなるのだと思います。


https://ifcf.jp/project/21