真面目に生きてきた。
それなりに、いや、かなり。
空気を読み、
ルールを守り、
調子に乗らず、
「ちゃんとした大人」でいようとしてきた。
それなのに、ふと立ち止まると、
人生が、どこか楽しくない。
周りを見ると、
軽やかに生きている人のほうが、
なぜか、うまくいっているように見える。
あれは、いったい、なぜなのだろう。

僕自身、長い間、
「真面目であること」は、
必ず報われるものだと信じてきた。
だから、手を抜かず、
妥協せず、
人の期待に応え続けてきた。
けれど、現実は違った。
評価されるのは、
必ずしも一番努力している人ではない。
むしろ、
余裕がありそうな人、
楽しそうな人のほうが、
人生を前に進めているように見えた。
その違いが、ずっとわからなかった。
だから、さらに頑張った。
もっと正しく、もっと真面目に。
結果、どうなったか。
心は固くなり、
他人の成功を素直に喜べなくなった。
最初は
「いつか失敗するはず」
だった感情が、
やがて
「失敗してほしい」
に変わっていく。
そんな自分に、
静かに失望していった。

転機は、
「正しさ」そのものを疑ったときだった。
真面目であることは、
本当に、美徳なのか。
正しく生きることは、
本当に、幸せにつながるのか。
気づいたのは、
正しさを握りしめるほど、
人は、他人を裁き、
同時に、自分も裁いてしまうということだった。
そこから、少しずつ、
生き方を変えていった。
人を呪うより、
人を祝う。
うまくいっている人を見たら、
理由を探すより、
「よかったね」と言ってみる。
すると、不思議なことに、
心が、少しずつ、ほどけていった。

「呪う」と「祝う」。
たった一字、部首が違うだけ。
でも、その違いは、
人生の質を、まるごと変えてしまう。
実際、
心が緩んだことで、
体調も整い、
長く抱えていた病も、回復していった。
もし今、
人生がどこか苦しいと感じているなら。
それは、あなたが
「ちゃんと生きてきた証」かもしれない。
ただ、その頑張り方を、
少しだけ、変えてもいい時期なのだと思う。
人生は、修行ではない。
耐え抜くことが、正解ではない。
喜びや楽しさを、
後回しにしなくていい。
真面目に生きてきたあなたは、
もう、十分すぎるほど、頑張った。
これからは、
幸せであることに、許可を出していい。運動が、続かない。
これはもう、長年の事実で、
言い訳のしようもなく、
僕の中では「唯一の悩み」と言ってもいいかもしれません。

ジムには、何度も通いました。
やる気も、決意も、その都度ちゃんとありました。
でも、続いて半年。
長くて一年。
一年以上、続いたことがありません。
なんでだろう?
ブログは20年以上続いているし、
仕事で決めたことは、わりときっちりやるタイプです。
投げ出すことも、途中で逃げることも、基本は嫌いです。
なのに、
運動だけは、どうしても無理。
理由は、実はとてもシンプルで、
身も蓋もありません。
――そもそも、運動が好きじゃない。
そして今月、
やっぱり、また、ジムを退会しました。
いつもの流れです。
「なんで続かないんだろう」
「意志が弱いのかな」
「また同じことを繰り返してる」
頭の中で、
自分を責める声が、いつもなら鳴り始めます。
たぶん、
これからも、
また入会して、
また続かなくて、
また退会する。
その繰り返しなんだと思います。

でも、今回は、
ひとつだけ、はっきりと違うことがありました。
それは――
自分を責める回数が、明らかに減っていたこと。
代わりに、
こんな言葉が、自然と浮かんできたんです。
「それでも、頑張ろうとしてるよね」
「ちゃんと、やろうとしてたよね」
「よくやってると思うよ」
続かなかった事実は、変わらないのに。
結果は、いつも通りなのに。
それでも、
自分を応援する声が、ちゃんと残っていました。
たぶん、次も続かないかもしれません。
正直に言えば、その可能性の方が高い。
でも、また、やると思います。
それは、
「やらなきゃ」じゃなく、
「やりたい」と思う自分が、確かにいるから。
だからもう、
続かなかった自分を責めるのは、やめようと思いました。
誰かに怒られたわけでもない。
誰かに迷惑をかけたわけでもない。
あるのは、
「やろうとした自分」と、
「続けられなかった結果」だけ。
だったら、
結果よりも、
やろうとした自分を、ちゃんと認めてあげたい。
退会の手続きをしながら、
ふと、そんなことを思いました。
「自分に優しくありたい」
それは、逃げでも、甘えでもなく、
ちゃんと前に進むための、大切な姿勢なんだと。
続けられない自分も、
何度も挑戦する自分も、
どちらも、今の自分。
だったら、
せめて、自分だけは、
自分の味方でいようと思います。
今日も、
ここまで、よくやってるよ。
カウンセリングをしていると、ときどき、こんなご相談を受けます。
というか、この時期、特に「この相談」が多くなります。
「いただいたプレゼントが、どうしても使えないんです」
「せっかく贈ってもらったのに、要らないんです」
「義母から送られてくる食物は、苦手なんです」
せっかく贈ってもらった申し訳なさと、見るたびに気が重くなる、そんな、お話です。

多くの場合、問題はモノそのものではなく、
「いただいたものは大切にしなければならない」
「相手の気持ちを裏切ってはいけない」
という思い込みです。
これは、日本人には馴染み深い感覚だと思います。
プレゼントはもちろん、お歳暮やお中元、引き出物の多くは、相手が善意で選んだものです。
だから、受け取るときには、きちんと感謝を伝える。
それは大切にしたい礼儀です!
でも、そのあと、そのモノをどう扱うかまで、罪悪感で縛られる必要はありません。
お歳暮にしても、
クリスマスプレゼントにしても、
義母や親戚からの贈り物にしても、
“こちらの好み”を丁寧に聞いたうえで贈られるケースはほとんどありません。
だから当然、
「これ…要らないな」
「正直、使わない…」
というモノも届きます。
そんな時は、気持ちよく“お福分け”してもいいし、誰にも行き先がなければ、そっと手放してもいい。
罪悪感は、一切不要です!
心が重くなるなら、手放す選択があってもいいのです!
そのモノを“どう扱うか”は、あなたが決めていい。
相手がこちらの好みを無視して贈ってきたのだから、あなたはあなたの好みで処理していい。
ここに矛盾はありません。
むしろ当然の権利です。
これは、相手を軽んじているわけではなく、自分をすり減らさないための判断です。

相手の期待に応え続ける生き方は、見た目よりずっと消耗します。
プレゼント一つでも「ちゃんとしなきゃ」と抱え込む人は、言葉や感情、人間関係でも同じことをしがちです。
そうやって、気づかないうちに疲れていく、、、
人生を少し楽にするコツがあるとすれば、「相手の期待」と「自分の責任」を分けて考えることかもしれません。
相手の気持ちに敬意を払うことと、自分の心まで差し出すことは、同じではありません。
これは、『言葉』についても同じです。
誰かの言葉が重たすぎるとき、無理に受け取らなくてもいいし、心に置かないという選択もあります。
その代わり、自分が何を大切にしたいのかは、少しずつ言葉にしていけばいい。
プレゼントも、
言葉も、
人間関係も、
あなたを苦しめるためにあるものではありません!
うまく扱えないときがあっても、それは失敗ではないと思います。
せめて今日くらい、自分を消耗させすぎない選び方を、どこかで思い出してもらえたら嬉しいです。

昨日オンエアされた、安達 充さんのラジオ番組に出演した回が、
ついに前半・後半に分けてアーカイブ公開されました。
人生の“節目”を静かに振り返るような、
不思議と心が整う時間です。

2025年12月11日にオンエアされた
ソングレターアーティスト・安達 充さんのラジオ番組。
収録当日、スタジオに流れていたのは、
「音に乗せて、人の物語を大切に運んでいく」という
安達さんらしい、凛としてあたたかい空気でした。
そんな空気に包まれながら、
僕自身の原点を、静かに語らせていただきました。
前半:名前の由来、生い立ち、そして“氏名に宿る使命”
まず前半のコーナーでは、
「神社昌弘」という名前の由来、
京都・大江山麓にルーツを持つ家の話、
父を亡くした10代の日々、
そして、クローン病を発症しながら学んだ“いのちの姿勢”について。
さらに、
“名前から読み解く使命”
という視点についてもお話ししていただいています。
自分の名前には、自分が生きる道筋が、
そっと手紙のように折りたたまれて入っている──
そんなお話を、安達さんが丁寧に引き出してくださいました。
📻 前半はこちら
後半:カウンセラーとしての仕事と、フォトエッセイ朗読
後半では、僕のカウンセラーという仕事について。
目の前の一人と、どう向き合ってきたのか。
どんな思いで、この仕事を続けてきたのか。
そして番組の後半、
安達さんのピアノに寄り添うように、
僕のフォトエッセイ集『わたしを生きる』の一部を朗読させてもらいました。
音楽と言葉が交差する、不思議な時間でした。
「聴く人の心が、ふっと緩むように」
と願いながら読ませていただきました。
📻 後半はこちら
ラジオは“その人の呼吸”が映る場所
テレビとも文章とも違って、
ラジオは“その人の呼吸”がそのまま響きます。
だからこそ、
今回のアーカイブは、
僕自身の軌跡と、今の想いが
静かに、まっすぐに伝わる内容になっていると思います。
人生のどこかでふっと立ち止まりたい時、
どうぞ前半・後半あわせて聴いていただけたら嬉しいです。
安達さん、スタッフの皆さま、
そして日頃からブログを読んでくださる皆さまのおかげで、
こうして声を届けられていることに、心から感謝しています。
あなたの今日が、少しでもあたたかく、
少しでも軽やかになりますように。
“自分らしく生きたい”——その願いは尊いのに、
やり方を誤ると、ただの“わがまま”に転落してしまうことがあります。
その境目にあるのは、たったひとつの問い。
「そこに愛はあるか?」

「本音で生きるんです」
「私は私で行きます」
この言葉、勢いがあって気持ちはよくわかります。
ただ、それによって周りが疲れてしまっているなら、
それは“自分らしさ”と呼ぶには少し乱暴です。
本当は「〜べき」という言葉を使いたくありません。
でも、
人間関係の基本だけは、
あえて“べき”と呼んでいいと、
僕は思っています。
長年カウンセリングをしてきて、
ここを外すと、必ずどこかに亀裂が入るからです。
言い方ひとつで、人の心は開いたり閉じたりします。
「嫌い」
「無理」
「ありえない」
「太りすぎ」
「ダサい」
「臭い」
たとえ、それが本音であっても、
これは本音ではなく、ただの暴力。
本音でぶつかるより、
思いやりで触れる方が、
遥かに強く、深く伝わるものです。
京都では昔から、
「親しき仲にも礼儀ありどすえ:笑」
と言われてきたように、
尊敬と尊重は、関係を長続きさせるための土台です。
もしあなたが最近、
誰かに雑に扱われていると感じるなら、
まずは自分自身をどれくらい丁寧に扱っているか、
そっと確かめてみてください。
そしてもし、
あなたが無意識に相手を雑に扱ってしまっているなら、
いつか必ずしっぺ返しが来ます。
これは精神論ではなく、自然の摂理です。
愛を欠いた言動は、必ず自分に戻ってきます。
だからこそ、
自分の言葉や態度を選ぶとき、
たったひとつの基準で十分なのです。
「この行動に、愛はあるだろうか?」
愛があるなら続ければいい。
愛がない相手なら、静かに距離を置けばいい。
戦う必要も、我慢する必要もありません。
距離は立派な選択です。
自分らしく生きるということは、
自分勝手に生きることではない。
自分の軸を持ちながら、
相手の人生も尊重する。
その姿勢こそが、
人間関係を豊かにし、
自分の人生も美しく整えていきます。
どうか今日も、
あなたの選ぶ言葉と行動に、
やわらかな愛がありますように!
