先日、久しぶりに強い怒りを感じる出来事がありました。
滅多に怒らない僕ですが、
今回は思わず声を荒げてしまったほどです。

大切な友人たちとの会食の席で、
ひとりの友人が周囲への敬意を欠く態度をとり、
そのまま見過ごすことができず叱ったところ、
まさかの“逆ギレ”が返ってきました。
その瞬間、場の空気が一変し、
友人は涙を流すほど追い詰められてしまいました。
間違っているのは相手であり、
僕が叱る理由も筋が通っています。
しかし、あとから胸の奥が重くなり、
「やりすぎたな」
と反省したのも事実です。
正論は正しい。しかし、それだけでは関係は守れない
今回、強く感じたことがあります。
正論は、相手を守る盾にも、突き刺す刃にもなる。
僕には“正しいことで追い詰めてしまう癖”があります。
それは悪気ではなく、
「誠実でありたい」という思いの表れでもありますが、
相手にとっては逃げ場のない言葉になってしまうことがある。
気づかぬうちに、
「頑張っている自分が正しい」
「反対側は間違っている」
という二元論に寄っていたのかもしれません。
正しさに寄りすぎると、人は余裕を失います。
叱るには、正しさ以上に“余白”が必要
叱る場面こそ、
心に遊びとゆるみが必要だと、あらためて感じました。
余白を持てば、言葉は柔らかくなる。
相手を責めず、関係を守ったまま伝えることができる。
僕自身、最近は少し“きっちり”しすぎていたのかもしれません。
ゆとりがあれば、あの場面でも違う伝え方ができたはずです。
大人になっても「ごめんなさい」を言えるかどうか
友人も謝ってくれました。
そして僕も素直に「ごめん」と伝えました。
翌日にはしっかり仲直りすることができました。
大人になるほど、「謝る」という行為は難しくなります。
しかし、関係性を整えるうえで、
「ごめんなさい」ほど強く、あたたかい言葉はありません。
人間関係は、完璧である必要はありません。
大切なのは、ぶつかったあとにどう向き合うか。
修復と理解の積み重ねこそが、信頼を育てるのだと思います。
ぶつかり合いは、関係が深まる前触れでもある
今回の出来事は、
僕自身が「正しさに寄りすぎていなかったか」と振り返る大きなきっかけになりました。
叱る側にも、叱られる側にも、
やわらかい反省と、少しの余裕。
それがあれば、人間関係は壊れないどころか、より深まっていきます。
大喧嘩の夜は、僕にとって
“正しさと優しさのバランス”を学び直す貴重な時間でした。
これからも、
正しさよりも「温度」を、
言葉よりも「余白」を大切に、
人と向き合っていきたいと思います。